裏切られることは最高の楽しみ。―ピエール・ルメートル「その女アレックス」

 電子書籍ではなく、紙の本で読みたい本というものがある。装丁がとってもきれいなものとか、そういう本は色々あるけれど、僕にとってミステリ本は間違いなくその中に入る。理由は、これから自分が裏切られることが物理的に証明されるから。ある部分まで読んで、事件の全容が見えたかと思わされる。しかし、ページを押さえる左手の下には、まだまだたくさんのページがある。これからどんな展開が自分を裏切ってくれるのか―その期待感がたまらないのだ。

 

その女アレックス (文春文庫)

その女アレックス (文春文庫)

 

 

そういう意味で「その女アレックス」はたまらない。真実の間をなんどもなんども転がされてくような感覚。まるでピンボールのように。

 

 誘拐監禁されたアレックスという女と、その事件を追うパリ市警のストーリーなのだが、謎めいたアレックスというキャラクターに対して、単純明快はっきりしたパリ市警の4人組が対照的で楽しい。チビで皮肉屋のカミーユ、デブで仲介役のル・グエン、金持ちで教養豊富なルイ、貧乏でケチなアルマン。まさに凸凹コンビ(いや、カルテットか)だが、全員極めて有能なのでご心配なく。

 

 起こる事件は気持ちが良いものではないから、4人組が繰り広げるドタバタコメディー・・・とはさすがにいかないが、表紙のおどろおどろしさに比べるともっとライトに、楽しく読める本のはず。

 

 ただし、読むなら徹夜の心構えだけはお忘れなきよう。

「邪悪」は他人事なんかじゃない―M・スコット・ペック「平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学」

 本屋で手に取ったとき、世に出回ってる自分ができない人間を告発しちゃう系の本かと思った。
実際は、人類が抱える「邪悪」という病についての本。

 

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

 

 タイトルの「平気でうそをつく人たち」のことを、筆者は「邪悪」な人々と呼ぶ。もちろんそこまでいうからにはただの嘘つきのことではない。

邪悪な人とは、「誤った自己愛(ナルシシズム)から生まれた完璧な自己像を守るために、人をスケープゴートにする人」のことを指す。こうした誤ったナルシシズムを持ってしまった人は、自分を守るために全く無自覚に嘘をついたり人を非難したりする。しかし邪悪な人々が邪悪である所以は、あくまでもそうした行動をとるからではなく、無意識のうちに自分の欠点と向き合う苦痛から逃れ続けようとするところにある。
 
 軽度のこういう「邪悪さ」を持った人はよく見かける。というか、苦痛から目をそらそうとすることは誰にでもありうることだ。嘘に嘘を重ねてしまったり、八方美人が過ぎてものすごい矛盾を生じているのに、本人は全然気づいていないようなアレだ。しかし、本書に載っている例はそんな軽度のものではない。完全な共依存に陥っているのにそれを認めようとせず、それを指摘すると激昂する夫婦。外面はものすごく良いが、自分の息子に対して酷くぞんざいな扱いをしているのに全く気づいておらず、指摘してもそのことを無かったことにしてしまう夫婦。一見まともなのに、無意識に子供を自殺させようとするような行動を取る夫婦。夫婦が多いのは、邪悪な人々は自らが問題を抱えているとは気づかないので、子供に問題が生じたときにやっと、子供の診療という形で精神科を訪れるからだろう。なにしろ、とんでもない嘘つきなのだ。普通に接している分にはボロなど出てこないほどに。

 

 第4章までは、個人の邪悪さが取り扱われる。ここまで読んでも正直、ああこういう人いるよなーという感覚が大きく、ただ新たな精神疾患を定義している本なのだろうと思っていたが、この本のヤバさは5章の「集団の悪について」にある。
 
筆者自身が調査したベトナム戦争時のソンミ村虐殺事件を主に例に上げながら、個人として特別邪悪でないような人々が、どうして明らかに邪悪な行動を取ったのか?ということを考察している。「普通」とされる兵士たちが実際はアメリカ社会の中の軍人、さらに軍人の中でもベトナム従軍歩兵という集団に属し、さらにその集団は積極的に、もしくは消極的に選抜された人間からなっていると明らかにする。実際、カナダに移住したり、良心的兵役拒否をした人はいたし、そこまでしなくとも志願兵になることでベトナム歩兵ではなく、海軍・空軍や、戦地後方の専門職になれることが広く知られていたらしい。つまり、徴兵逃れをあえてしなかった人々が集っているのだ。
 
 こうした選抜された人間を典型化すると、社会の低層寄りに所属していて、ある程度攻撃的な性格を備えた人間であるということになる(もちろん、必ずしも全員がそうだというわけではない)。これを考慮に入れると、ソンミ村虐殺事件のような事件はアメリカ国民の平均よりも起こりやすそうである、と言える。
 
 しかし、この選抜自体が人間の「邪悪性」に基づいたスケープゴートであると筆者は指摘する。”社会の低層寄りに所属していて、ある程度攻撃的な性格を備えた人間”は社会から爪弾きにされがちだが、そうした人間を爪弾きにすること自体が社会の構造的問題から目を背け、特定の人間をスケープゴートにしようとすることに当たるといえる。さらに、軍隊の存在そのものも、殺人を他人に押し付けている。結局、アメリカ(だけじゃなくて、世界全体の)社会そのものが自分たちの社会の「健全さ」を守るために、問題点を無視し、誰か/何かをスケープゴートにしてしまう。これは邪悪の定義そのものだ。
 
 邪悪さは個人よりも、集団においてより容易に姿を現す。そのなかの激しい物、例えばナチス・ドイツのユダヤ人迫害とか、はこれまで「国家的狂気」などという名のもとで片付けられ、「普通」の状況ではあまり現れないような印象を与えられてきた。しかし、人々はいくつかのありふれた条件のもとで邪悪になってしまう。
 
邪悪にならないため、そして邪悪な人間を悪から救い出すときにもっとも大事なのは自己批判。自分の欠点を真正面から見つめることで初めて人を邪悪さから救うことができるかもしれない。あくまでも、かもしれない、である。邪悪の治療はこれまでの人類の歴史の中でも破格の難易度を誇るのだ。ただ、それが実現した場合、人間は、社会はどうなるんだろうか。少しだけ楽しみにしながら、まずは自分に向き合わねば、と思った。
 
 
 
余談だが、この「邪悪」はナルシシズム、ある意味過度の自意識から生まれるもの。となれば、思いつくのは前回の記事の「すべてはモテるためである」。筆者は「人間は善と悪(=神と悪魔)の間で葛藤している」というキリスト教的な考え方を使って邪悪のことを説明しているが、それに習って考えると、「すべモテ」に出てくる「自意識過剰でキモチ『悪』いヤツ」っていうのは、「まだ戦っている途中だけど、どっちかっていうと悪魔よりに行っちゃったヤツ」なんじゃないか?そして、それをこじらせると「平気でうそをつく人たち」の「邪悪」にたどり着いてしまうのでは・・・?なんて。

 

彼女持ちの男は総じてモテる―二村ヒトシ「すべてはモテるためである」 - 本読みは歩く(仮)

 

 
 
 

彼女持ちの男は総じてモテる―二村ヒトシ「すべてはモテるためである」

彼女持ちの男はモテる。余計ムカつく。

 

本の話に入ろう。

 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

 

 いろんな書評ブログさんとか見ていると中々評価が良く、気になっていたので「べ、べつにモテたいとかじゃなくてブログのネタに買うんだぞ!」と思いながら購入。

一行目。

なぜモテないかというと、それはあなたがキモチワルイからでしょう。

なぜキモチワルイかというと、自意識過剰だから。臆病な人はネガティブの方に、空気が読めない人はポジティブな方に自意識過剰。どうしてかといえば、自意識過剰だと、人と向き合うことができない。こういう場合に対話しているのは相手ではなく、相手を通した自分だからだ。つまりモテるためにはまず自意識過剰を直さなければならない、と書いてある。

じゃあ、モテるって一体どういうことだ?何のためにモテたいのだろうか?

「モテたい」=「キモチワルくないということを保証されたい」

最初、「すべてはモテるためである」というタイトルが良くわからなかった。「すべて」って本当に全てなの?家に帰って一人寂しくyoutubeの動画を見ながら晩酌するのもモテるためなのか?と。だが、この言葉で腑に落ちた。

承認欲求を満たされることなしに幸せに生きることができる人は少ない。マズローの欲求5段階説によれば、承認欲求の段階をクリアし、自己実現欲求の段階も達成してしまう人は全人口の1%程度で他の99%の人にとっては承認欲求を得ることでいっぱいいっぱい。だから、ほとんど「すべて」の人の人生は、承認欲求のため=モテるため。ちょっと強引かな?

 

自意識過剰を治すためにはアイデンティティを確立することが大事だと筆者は言うけれど、これはすごく難しい。TV版「エヴァンゲリオン」のラストじゃないけれど、アイデンティティを確立することは承認欲求が少なからず必要なはずだ。だから彼女持ちはモテる。彼女持ちでない人は、モテること以外で承認欲求を得ることが出来たものだけがモテることができる。少なくとも、「すべてはモテるためである」なんてタイトルの本を手にとっちゃうくらいにこじらせてる人にそれが出来るかどうか。……僕?僕の話はいいよ……。

 

 

 

 

 

 

めくるめく精神疾患の世界 「家の中にストーカーがいます」

 「まさかとは思いますが、この『○○』とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか」
この元ネタは林公一先生の「精神科Q&A」の「家の中にストーカーがいます」という質問。
林先生のこの質問と同タイトルの本がkindleで売っていたので買ってみた。
  統合失調症患者が自分の症状について、病識がない状態で詳細に自分の言葉で書き記している本はおそらく世界に類を見ないのではないか。インターネットで彼らに遭遇することはままあるが、まさに「衝撃」の一言。「車が私の精神を破壊するために横に止まり」「耳にイャホンやヘッドホンをつけてなくっても音が直接聞こえる新しいバージョンのipodが出ていてみんなはそれを使っているので平気なのではないでしょうか? 
 
 こうした世界に触れてみたいという夢野久作ファンのようなちょっとズレた方でなくとも、林氏の主張する「擬態うつ」についてや、 発達障害に対しての接し方などは、職場でお悩みの方は参考になるのではないか(そして、Q&Aに質問してみてはいかがだろうか)。
 
 また、実際の患者さんに対しては大変失礼なこととは思うが、本書は非常に素晴らしい読書体験であった。はっきり言って自らがそうした状態にない、身近にそうした状態の人がいない「こちら」側の人間にとっては精神病理というのはある種ファンタジーの世界のものであり、SF的でもある。またその診断や治療の過程はミステリーのようでもある。実に小説的な要素に満ち溢れている。いや、実際に夢野久作に限らずとも精神疾患をテーマにした小説は多い。
 
 しかし、本書はノンフィクションなのだ。本人によるメールももちろん、家族からのメールも抱えられないほどの重さを感じる。
 
 一方で林先生の淡々と「私のサイトの精神科Q&Aは、悩み相談でもなければ、医療相談でもありません。単に事実を回答するだけです。たとえそれが質問者にとって絶望的な内容であっても、事実は事実として回答するのがこのサイトの方針です。」という姿勢はこの本の中で読者を「こちら側」に留めておく役割を果たしている。まるでマジックミラー越しに診察の様子を眺めているような感覚を覚える。マジックミラー越しにですら、こんなに重いのだ。
 
 読んだ中で心に残ったのは「人の顔が覚えられない」。 HP掲載時には、人の顔を認識することが出来ないという先天性の相貌失認という障害は世界で9例しか無かったという。ところが実際は、Q&Aを見て自分の症状を自覚しメールする人がたくさんいたらしい。世界でも先天性の相貌失認は後天性のそれよりも症例が多いということが発見されたそうだ。
 
 このことは何が障害で何が障害でないかを非常に曖昧にしている。少なくとも本人達は「人の顔を覚えることが苦手」ということを障害だと言われる程深刻だとは思っていなかったに違いない。しかし、精神科医によって「相貌失認」という病名が与えられると、自分が「障害」を持っていたことを自覚する。自分が普通だと思っていることでも「異常」であることは世の中に少なからずある。
 
わたしもあなたもその病名をただ知らないだけで、奇病を抱えているのかもしれない。