「邪悪」は他人事なんかじゃない―M・スコット・ペック「平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学」

 本屋で手に取ったとき、世に出回ってる自分ができない人間を告発しちゃう系の本かと思った。
実際は、人類が抱える「邪悪」という病についての本。

 

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

 

 タイトルの「平気でうそをつく人たち」のことを、筆者は「邪悪」な人々と呼ぶ。もちろんそこまでいうからにはただの嘘つきのことではない。

邪悪な人とは、「誤った自己愛(ナルシシズム)から生まれた完璧な自己像を守るために、人をスケープゴートにする人」のことを指す。こうした誤ったナルシシズムを持ってしまった人は、自分を守るために全く無自覚に嘘をついたり人を非難したりする。しかし邪悪な人々が邪悪である所以は、あくまでもそうした行動をとるからではなく、無意識のうちに自分の欠点と向き合う苦痛から逃れ続けようとするところにある。
 
 軽度のこういう「邪悪さ」を持った人はよく見かける。というか、苦痛から目をそらそうとすることは誰にでもありうることだ。嘘に嘘を重ねてしまったり、八方美人が過ぎてものすごい矛盾を生じているのに、本人は全然気づいていないようなアレだ。しかし、本書に載っている例はそんな軽度のものではない。完全な共依存に陥っているのにそれを認めようとせず、それを指摘すると激昂する夫婦。外面はものすごく良いが、自分の息子に対して酷くぞんざいな扱いをしているのに全く気づいておらず、指摘してもそのことを無かったことにしてしまう夫婦。一見まともなのに、無意識に子供を自殺させようとするような行動を取る夫婦。夫婦が多いのは、邪悪な人々は自らが問題を抱えているとは気づかないので、子供に問題が生じたときにやっと、子供の診療という形で精神科を訪れるからだろう。なにしろ、とんでもない嘘つきなのだ。普通に接している分にはボロなど出てこないほどに。

 

 第4章までは、個人の邪悪さが取り扱われる。ここまで読んでも正直、ああこういう人いるよなーという感覚が大きく、ただ新たな精神疾患を定義している本なのだろうと思っていたが、この本のヤバさは5章の「集団の悪について」にある。
 
筆者自身が調査したベトナム戦争時のソンミ村虐殺事件を主に例に上げながら、個人として特別邪悪でないような人々が、どうして明らかに邪悪な行動を取ったのか?ということを考察している。「普通」とされる兵士たちが実際はアメリカ社会の中の軍人、さらに軍人の中でもベトナム従軍歩兵という集団に属し、さらにその集団は積極的に、もしくは消極的に選抜された人間からなっていると明らかにする。実際、カナダに移住したり、良心的兵役拒否をした人はいたし、そこまでしなくとも志願兵になることでベトナム歩兵ではなく、海軍・空軍や、戦地後方の専門職になれることが広く知られていたらしい。つまり、徴兵逃れをあえてしなかった人々が集っているのだ。
 
 こうした選抜された人間を典型化すると、社会の低層寄りに所属していて、ある程度攻撃的な性格を備えた人間であるということになる(もちろん、必ずしも全員がそうだというわけではない)。これを考慮に入れると、ソンミ村虐殺事件のような事件はアメリカ国民の平均よりも起こりやすそうである、と言える。
 
 しかし、この選抜自体が人間の「邪悪性」に基づいたスケープゴートであると筆者は指摘する。”社会の低層寄りに所属していて、ある程度攻撃的な性格を備えた人間”は社会から爪弾きにされがちだが、そうした人間を爪弾きにすること自体が社会の構造的問題から目を背け、特定の人間をスケープゴートにしようとすることに当たるといえる。さらに、軍隊の存在そのものも、殺人を他人に押し付けている。結局、アメリカ(だけじゃなくて、世界全体の)社会そのものが自分たちの社会の「健全さ」を守るために、問題点を無視し、誰か/何かをスケープゴートにしてしまう。これは邪悪の定義そのものだ。
 
 邪悪さは個人よりも、集団においてより容易に姿を現す。そのなかの激しい物、例えばナチス・ドイツのユダヤ人迫害とか、はこれまで「国家的狂気」などという名のもとで片付けられ、「普通」の状況ではあまり現れないような印象を与えられてきた。しかし、人々はいくつかのありふれた条件のもとで邪悪になってしまう。
 
邪悪にならないため、そして邪悪な人間を悪から救い出すときにもっとも大事なのは自己批判。自分の欠点を真正面から見つめることで初めて人を邪悪さから救うことができるかもしれない。あくまでも、かもしれない、である。邪悪の治療はこれまでの人類の歴史の中でも破格の難易度を誇るのだ。ただ、それが実現した場合、人間は、社会はどうなるんだろうか。少しだけ楽しみにしながら、まずは自分に向き合わねば、と思った。
 
 
 
余談だが、この「邪悪」はナルシシズム、ある意味過度の自意識から生まれるもの。となれば、思いつくのは前回の記事の「すべてはモテるためである」。筆者は「人間は善と悪(=神と悪魔)の間で葛藤している」というキリスト教的な考え方を使って邪悪のことを説明しているが、それに習って考えると、「すべモテ」に出てくる「自意識過剰でキモチ『悪』いヤツ」っていうのは、「まだ戦っている途中だけど、どっちかっていうと悪魔よりに行っちゃったヤツ」なんじゃないか?そして、それをこじらせると「平気でうそをつく人たち」の「邪悪」にたどり着いてしまうのでは・・・?なんて。

 

彼女持ちの男は総じてモテる―二村ヒトシ「すべてはモテるためである」 - 本読みは歩く(仮)