めくるめく精神疾患の世界 「家の中にストーカーがいます」

 「まさかとは思いますが、この『○○』とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか」
この元ネタは林公一先生の「精神科Q&A」の「家の中にストーカーがいます」という質問。
林先生のこの質問と同タイトルの本がkindleで売っていたので買ってみた。
  統合失調症患者が自分の症状について、病識がない状態で詳細に自分の言葉で書き記している本はおそらく世界に類を見ないのではないか。インターネットで彼らに遭遇することはままあるが、まさに「衝撃」の一言。「車が私の精神を破壊するために横に止まり」「耳にイャホンやヘッドホンをつけてなくっても音が直接聞こえる新しいバージョンのipodが出ていてみんなはそれを使っているので平気なのではないでしょうか? 
 
 こうした世界に触れてみたいという夢野久作ファンのようなちょっとズレた方でなくとも、林氏の主張する「擬態うつ」についてや、 発達障害に対しての接し方などは、職場でお悩みの方は参考になるのではないか(そして、Q&Aに質問してみてはいかがだろうか)。
 
 また、実際の患者さんに対しては大変失礼なこととは思うが、本書は非常に素晴らしい読書体験であった。はっきり言って自らがそうした状態にない、身近にそうした状態の人がいない「こちら」側の人間にとっては精神病理というのはある種ファンタジーの世界のものであり、SF的でもある。またその診断や治療の過程はミステリーのようでもある。実に小説的な要素に満ち溢れている。いや、実際に夢野久作に限らずとも精神疾患をテーマにした小説は多い。
 
 しかし、本書はノンフィクションなのだ。本人によるメールももちろん、家族からのメールも抱えられないほどの重さを感じる。
 
 一方で林先生の淡々と「私のサイトの精神科Q&Aは、悩み相談でもなければ、医療相談でもありません。単に事実を回答するだけです。たとえそれが質問者にとって絶望的な内容であっても、事実は事実として回答するのがこのサイトの方針です。」という姿勢はこの本の中で読者を「こちら側」に留めておく役割を果たしている。まるでマジックミラー越しに診察の様子を眺めているような感覚を覚える。マジックミラー越しにですら、こんなに重いのだ。
 
 読んだ中で心に残ったのは「人の顔が覚えられない」。 HP掲載時には、人の顔を認識することが出来ないという先天性の相貌失認という障害は世界で9例しか無かったという。ところが実際は、Q&Aを見て自分の症状を自覚しメールする人がたくさんいたらしい。世界でも先天性の相貌失認は後天性のそれよりも症例が多いということが発見されたそうだ。
 
 このことは何が障害で何が障害でないかを非常に曖昧にしている。少なくとも本人達は「人の顔を覚えることが苦手」ということを障害だと言われる程深刻だとは思っていなかったに違いない。しかし、精神科医によって「相貌失認」という病名が与えられると、自分が「障害」を持っていたことを自覚する。自分が普通だと思っていることでも「異常」であることは世の中に少なからずある。
 
わたしもあなたもその病名をただ知らないだけで、奇病を抱えているのかもしれない。